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東京地方裁判所 平成9年(ワ)8692号 判決

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

一  被告は、原告に対し、金一〇〇〇万円及びこれに対する平成九年五月一五日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言。

第二  事案の概要

本件は、国立乙山大学歯学部に在籍中、HIV感染症の診断を受け、同大学医学部付属病院において受診していた原告が、右病院の医師がHIV感染症に係る原告の病状を原告の承諾なくカルテに基づき右歯学部教授に対して漏示したために、原告が医療機関に対する不信を抱き、東京の医療機関に転院せざるを得ず、また、HIV感染症の患者の人権や教育が保障されることは困難であるとして右大学を退学せざるを得なくなり、甚大な精神的損害を被った旨を主張して、右大学の設置者である被告に対し、診療契約上の守秘義務違反及びカルテの保管義務違反に基づく損害賠償として、慰藉料一〇〇〇万円の支払を求めている事案である。

一  争いのない事実等(証拠上明らかに認められる事実も含む。)

1 原告は、昭和六二年四月、国立乙山大学(以下「被告大学」という。)の歯学部に入学し、平成八年六月三〇日、同大学を退学した者であり、被告は、被告大学の歯学部、医学部及び同学部附属病院を設置し、これを運営しているものである。

2 原告は、平成五年一二月二七日、HIV感染症検査のため被告大学医学部附属病院第三内科(以下「第三内科」という。)において受診し、平成六年一月一〇日、HIV感染症との確定診断を受け、そのころ、被告との間で、HIV感染症の治療等を目的とする診療契約(以下「本件診療契約」という。)を締結した。以後、第三内科は、原告に対し、HIV感染症についての検査、投薬等の治療を行った。なお、原告は、右一月一〇日、被告大学の戊田歯学部長らに対し、HIVに感染しているという事実と学業を継続する意思のあることを伝えた。

3 被告大学医学部附属病院検査部長の丙川松夫教授(以下「松夫教授」という。)は、平成七年六月八日、被告大学歯学部丁原竹夫教授(以下「丁原教授」という。)から電話で原告のHIV感染症に係る症状についての問い合わせを受けた際、原告の承諾を得ることなく、丁原教授に対し、原告のカルテの記載に従って、「病状は全身倦怠感と、ときどき発熱があるようだ。検査データでは血糖値の上昇とリンパ球の軽度の減少がある。CD4とCD8との比は〇・五前後で横這い状態にあり、良くもなく悪くもない。大きな変化はない。」という内容の説明をした(以下、右に係る説明を「本件開示」という。)。

二  主たる争点

1 (守秘義務違反及びカルテの保管義務違反とならない理由1として)

本件開示は正当な理由に基づくものといえるか。

2 (守秘義務違反及びカルテの保管義務違反とならない理由2として)

本件開示について、原告の黙示的承諾があったといえるか。

3 原告主張の損害と本件開示との間に因果関係があるか。

三  争点1(正当理由の有無)に対する当事者の主張

【被告】

1  原告は、平成七年六月当時、進級判定にさえ合格すれば臨床実習へ進めるという状況にあった。歯学部学生の臨床実習は、指導教官のもとで実際に患者に接して診察や検査などを行うものであるが、その実習が観血的なものが多いことなどを考慮すると、原告が臨床実習をすることが可能かどうかの判定に当たっては、以下の観点から、歯学部教育担当責任者において原告の健康状態や免疫状態を把握しておく必要性が大きく、そのため、丁原教授は第三内科に対して原告の病状を問い合わせたのである(特に、CD4の値は、HIVキャリアーの免疫状態を知る簡便な指標となるとともに、キャリアーの体中のHIVウイルス量を直接うかがう指標ともなる。)。

(一)  HIV感染者は感染後次第に免疫機能が低下し、CD4が二〇〇個から三〇〇個以下になると、HIVキャリアーの免疫機能は急激に低下し、日和見感染症など種々の感染に弱くなる。事実、原告は体がきついこと、下痢などの体調不良を主治医や歯学部の教授らに訴えて、度々試験や講義を休んだり、学内で昏迷状態のところを発見されたり(もっとも、これは精神安定剤の飲み過ぎによるものであることが後で判明した。)していた。その上、歯科医療行為にあっては、健康な歯科医であっても肝炎その他の感染の危険が高いので、実習現場における種々の感染症を持った歯科実習患者から、免疫低下状態の原告への感染を予防するために、原告の健康状態、又は免疫機能(CD4値等)を知り、それに応じて教育指導をする必要があった。

(二)  肉体的に重労働である歯科実習に対する原告の参加内容を決定するためにも、原告の健康状態を把握する必要があった。

(三)  歯科診療では、歯の切除、歯石除去、麻酔注射など観血的な処置が多いため、患者の歯肉、粘膜や歯科医自身の手指を損傷する危険性が常にあり、針刺し事故は熟練した歯科医でも起こりうる事柄であって、絶対に起きないという保証は存しない。特に、平成七年六月当時、米国では、キムバリーバーガリス事件(エイズ発症の歯科医から診療を受けた患者にHIVが感染した事件)が大きな話題となっていた。そのため、歯学部における学生相互実習の相手学生及び歯科実習患者への二次感染のリスクをあらゆる角度から調べておく必要性があった。

2  次の四1記載の歯学部三者協議は、本件開示当時、日本においては、歯科医や歯科実習生の臨床歯科治療とHIV感染症との関係について何ら指針やマニュアルのない状態の中で、世界中から情報を集め、原告につき、原告とその両親、主治医団、保健管理センター教授らを交え、定期的に話合いを持ちながら、最良の方法を模索していたのであり、主治医団は歯学部三者協議の右努力を信頼して高く評価していた。そして、本件開示を受けた丁原教授は、歯科医師養成を使命としている教育機関の責任者の一人であり、歯学部における臨床実習を管理する立場にある歯学部感染対策委員長であり、原告の臨床実習の進め方を検討するとともに、原告の学業継続を正しい判断のもとに指導していく立場にある歯学部教育委員長でもあり、かつ、原告との応接にも直接当たる歯学部三者協議の一員であった。

3  松夫教授は、本件開示当時、臨床検査医学講座教授及び医学部附属病院検査部長の職にあり、第三内科に所属はしていなかったが、HIV患者については、その疾病の特殊性、同疾病についての松夫教授の研究業績や診療実績等から、従前どおり同教授が引き続き第三内科治療班に加わり、その総元締めとして実際の診療、治療計画、医師に対する指導にも従事してきたものである。そして、原告に対する診療に関しては、松夫教授が開発した治験薬ベスナリノンの原告への頻回の投与、検査データの分析による原告の症状観察及び治験薬の効果の判定を行うとともに、第三内科治療班の中心的な立場として、丙川梅夫医師(以下「梅夫医師」という。)からの連絡を受けながらその治療の相談にのるなどのコンサルテーションをし、主治医の一員としての役割を果たしていたものであった。

4  以上の事情に照らせば、松夫教授が、丁原教授に対して原告の病状を開示したことには、正当な理由がある。

【原告】

1  医師がその診療にかかわる患者がHIVに感染していることを知った場合に、患者の承諾なしに他にその情報を開示することが許されるのは、後天性免疫不全症候群の予防に関する法律(以下「エイズ予防法」という。)の秘密漏示に対する罰則規定(同法律一四条)に定める例外(正当な理由)を除いてはあり得ないところ、厚生省は、右罰則規定を受けて、「正当な理由」の該当事由として、「(一) 法廷で証言する場合、(二) 法の規定に基づき都道府県知事へ通報する場合、(三) 医師が医療従事者の感染防止のため必要な指示を行う場合、(四) 医療機関の職員等が診療報酬の請求のため病名を付した関係書類を関係機関に提出する場合、(五) 医師が救急隊員等の感染防止のため消防機関に連絡する場合」を例示している。さらに、厚生省は平成三年四月に「HIV医療機関感染予防対策指針」を発表し、その中の「秘密の保持について」という項では、「<1>患者に対する指示、指導、連絡等は医師が直接本人に伝える。<2>患者本人以外の者からの電話等による患者に関する問い合わせには一切対応しない。<3>患者の病状等に係る証明書等の交付は、原則として患者本人以外の者に対しては行わない。」旨を指示している。

このように、厚生省は、HIV感染症の登場以来、繰り返し医療機関のHIV感染者のプライバシーの保護・守秘義務の徹底について指導してきた。被告大学医学部附属病院は、乙山県における指導的な医療機関であり、HIVの診療を実施してきたのであるから、厚生省の右指導内容については十分熟知していたものと思われる。しかるに、松夫教授が丁原教授からの電話での問い合わせに対して電話で本件開示をした行為は、厚生省の右指導に明白違反しており、形式上ですら正当な理由の要件を満たすものではない。

2(一)  被告は、丁原教授が松夫教授に問い合わせた動機について、検査の結果次第では、原告が臨床実習に入ることになるので、その適否の参考資料とするために、原告がどの程度の健康状態にあるか知りたかった旨主張する。しかし、右問い合わせについて、他の教授、とりわけ歯学部三者協議のメンバーと事前に協議した形跡がないこと、したがって、右問い合わせは丁原教授の個人的行為として行われたこと、原告の実習への参加については厚生省から実施させるべきとの指導を受けていたことからすると、原告の参加を検討するに当たって原告の症状や通院状況の把握が必要とは考えられないことから、被告の右主張は合理性がない。またHIV感染症については、ごく初期にマスコミ等で感染力が過大に評価され、いたずらに恐れられたが、B型肝炎の二次感染防止の方法をとれば、その感染防止は十二分であることは、昭和五八年には世界的に知られていた。「キムバリーバーガリス事件」については、本件が問題となった平成七年当時、歯科医の故意によって引き起こされた犯罪ともいうべきものであることが既に解明され、通常の歯科治療からHIV感染が起こり得るものではないとするのが一般的見解であった。その意味でも原告の病状を把握する必要性は乏しかった。

(二)  むしろ、実際は、厚生省や文部省、あるいは学会としてHIV感染をした学生を実習から排除すべき理由がないことは自明のこととされていたが、被告大学歯学部では、一部の教授の反対もあり、その方針を教授会で確認することに困難があったことから、反対する教授の説得のために、丁原教授としては個人的に原告の症状や通院状況を知る必要性を感じ、問い合わせをしたものと思われる。仮に、教授会や歯学部三者協議が必要としていたならば、正式に原告の承諾を得て行えば足りたのであり、そのことに格別困難はなかったはずである。しかし当時、原告の臨床実習への参加は、マスコミを含めて注目されており、原告自身も度々参加を可能とする旨の正式な表明を要望していた。したがって、歯学部として、原告に症状等の報告を求めるとすれば、その根拠を説明する際、実習を制限する場合のあることを説明しなければならず、そのことを原告に問題とされることを避けるために、あえて原告を通じて情報を入手することを避けたものと考えるほかない。

(三)  あるいは、同年五月三一日にテレビ番組「TBSスペースJ」において、原告のことを扱った「実名公表、エイズ(HIV)感染者、ある歯学生の選択」が放映されたので、歯学部に対してマスコミ等の取材が殺到し、このマスコミ対策を進める上で必要と考えられたから、丁原教授は問い合わせを行ったのである。

3  松夫教授は、原告の主治医ではなく、原告を診察したことは一度もない。松夫教授は、かつての経緯または原告の主治医である梅夫医師の実兄であったことから、第三内科の原告のカルテを勝手に見ようとすれば見られる立場にあり、本件開示においても、原告のカルテを勝手に持ち出して見たのである。

4  以上によれば、原告の承諾なしに松夫教授が原告の病状を開示してよいとする正当な理由はない。

四 争点2(黙示的承諾の有無)に対する当事者の主張

【被告】

1  原告からHIV感染症の検査結果が陽性であるとの報告を受けた被告大学歯学部は、戊田歯学部長、丁原教授及び同学部教授甲田春夫(以下「甲田教授」という。)の三名で対策班を組成して原告に対応することとし、右三名による対策班を「歯学部三者協議」と命名した。そして、右歯学部三者協議(以下「歯学部三者協議」という。)が中心となり原告の支援を行っていくこと、今後の原告の学生生活については、原告の両親を交えて協議するほか、第三内科の原告の主治医団とも情報交換等をして連携を図ることを基本とすることを決めた。

2  平成六年三月八日、歯学部三者協議と原告及びその両親との面談が実施され、原告の学業継続の意思が確認されるとともに、原告らに対し、第三内科と連携をとることも含めた歯学部三者協議の対応の仕方である前記基本路線についての説明がされた。そして、その面談の場において、原告及びその両親の同意を得て、松夫教授から、原告の発症の時期、最新の検査結果、合併症、生活上の注意等についての説明がされた。

3  原告は、その後、歯学部三者協議に自らの悩みごとの相談をしたり、歯学部三者協議、カウンセラー、主治医団との面談にも応じており、歯学部三者協議が原告を支援していくことには異存がなかった。

4  同年一〇月二七日、歯学部三者協議と原告及びその両親との面談が再度実施され、歯学部三者協議の教授らから、原告の臨床実習の内容、方法について限定されることがあり得ることや、臨床実習の際に、病院の実習関係者及び患者の理解を得る必要があることなどが原告らに説明された。その際、原告の父親は、臨床実習でどうしてもできないことがあればやむを得ないが、できるところまで実習を受けさせて欲しい旨の要望を示した。また、原告も、臨床実習に進み、何とか卒業し、将来はカウンセラーとして活動したい旨の希望を述べた。

5  このような原告やその両親の言動に照らせば、原告は、歯学部三者協議が各種関係者の協力のもとに原告を支援していく上で、また、歯学部として諸対策を検討していく上で、歯学部が原告の病状についての情報を医学部に対して求めることについて包括的に承諾していたというべきである。

【原告】

1  被告の主張1の事実は否認する。第三内科が原告の歯学部での教育支援のために具体的に動いた事実はない。また、第三内科における原告の主治医は、第三内科の乙原教授及び梅夫医師であって、松夫教授は第三内科のメンバーではなく、原告を診療したことは一度もない。

2  仮に、被告主張の「歯学部三者協議」なるものが存在し、原告の歯学部における教育を支援する意図があったとしても、その事実をもって、原告の包括的承諾を認める前提事実とすることはできない。

平成六年当時、HIV感染症に関する医学上、疫学上の知見は確立されており、その感染予防については、B型肝炎の感染予防に関するマニュアルを実践すれば足りることが、既に医学、歯学関係者だけではなく広く一般的にも知られていたものである。したがって、そもそも歯学部でのHIV感染学生の臨床実習を含む教育に当たって、本人の病状に関する情報は必要とされないのであるから、原告において、「歯学部三者協議」が原告の病状について第三内科に問い合わせをすることを包括的に承諾していたということはあり得ない。

3  原告(及びその両親)が、被告大学に対し、「学業の継続や臨床実習への参加」を希ったという事実はない。むしろ、被告大学や歯学部のHIV感染症に対する無知、偏見から、原告がHIV感染症であることが学業の継続に障害が生ずるおそれがあるのではないかと心配していたのであり、原告は、そのようなことにならぬよう自ら戊田教授らにHIV感染症であることを告知し、適切な対応を求めたのである。

五 争点3(損害及び因果関係の有無)に対する当事者の主張

【原告】

1  平成七年ころ、歯学部教授会では、原告の学業の継続を肯定する見解と、これを疑問視する見解との対立があり、原告の学生としての地位は微妙な状況にあった。学業の継続を疑問視する見解は、原告の健康状態を不安とし、暗に自主退学を勧めるものであり、その意味で、原告の症状がどのようなものであるかは重要な意味を持っていた。また、歯学部の学生の間でも、原告について興味本位の噂が飛び交っていた。第三内科が原告の病状を説明した結果、原告は、歯学部内の教授から、「一度退学して、治ってから復学したらいいのではないか。」「学業より体調を心配しないといけない時期なのではないか。」などと言われ、半ばノイローゼ状態となり、やむなく被告大学を退学するに至った。

2  原告は、松夫教授による本件開示の結果、被告大学附属病院に対する不信を抱き、乙山県内の医療機関におけるHIVの診療を断念して東京の医療機関に転院せざるを得なかった。また、原告は、被告大学歯学部においては、プライバシーの保護とHIV感染患者の人権や教育が保障されることは困難であるとして、被告大学を退学せざるを得なくなった。

3  1又は2の事実による原告の精神的被害は甚大であり、これを金銭によって慰謝するには少なくとも一〇〇〇万円は下らない。

【被告】

1  原告の主張の1及び2の各事実は否認する。

2  歯学部教授会では、原告のHIV感染による学業継続の問題を審議したことはなく、ましてや、原告に対し暗に自主退学を勧めるのが相当であるというような話合いをしたこともない。原告が学業を継続するに当たり微妙な立場にあったのは、原告が五年次前期までに終了すべき授業科目について不合格であり、平成三年以降平成七年の時点でもなお不合格科目があって留年を重ねていたことによるものである。

3  本件開示に係る原告の病状等の情報は、歯学部が原告を支援していく際に検討する基礎資料とされたものであって、それ以外の目的には使用されていない。

4  原告は、従前からの学業不振と体調不良により、在籍期間内に卒業できるか微妙な立場にあったため、体調を回復させた上で、再入学して期間内の卒業を目指すために納得して退学したものである。

5  以上からすれば、原告が被告大学歯学部を退学するに至ったことと、本件開示との間には相当因果関係がない。

第三 当裁判所の判断

一  事実経過等

事案の概要の二記載の事実、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

1  原告のHIV感染の事実と第三内科の対応

原告は、平成五年一二月初旬ころ、乙山市中央保健所においてHIV抗体検査(スクリーニング検査)を受け、検査の結果、HIV陽性であることが判明した。右中央保健所の所長は、松夫教授に電話で右検査結果を報告し、原告について、HIV感染症の確定診断、その治療と健康管理、及び二次感染防止の指導等を依頼した。当時松夫教授は、厚生省の「HIVキャリアの発症予防・治療に関する研究班」の班員であるなど、HIV患者の治療に関しては乙山県における第一人者であり、そのため右中央保健所長は、HIV患者に関して同教授に連絡をしたものである。

右連絡があった数日後、松夫教授は、第三内科科長の乙原教授とともに原告に会ったが、その席で乙原教授は原告を励まし、今後の治療については、主に第三内科の梅夫医師が外来で原告を診るが、松夫教授と乙原教授もそれを補佐するなどと話した。梅夫医師は同月二七日、第三内科外来において、原告に対し、問診と採血を行い、HIV確認検査及び免疫学的検査を実施した。翌平成六年一月一〇日、梅夫医師は、右検査の結果、HIV感染の事実が確認されたことを原告に伝えた。同日、梅夫医師、乙原教授及び松夫教授は原告と面談し、今後の治療や二次感染防止の必要性などについて話をした。

その後、原告は、HIV感染症の治療のために、二週間に一度程度の割合で第三内科外来を受診し、専ら梅夫医師による診察を受けた。松夫教授は、第三内科でのHIV感染症治療における中心的役割を果たしてきたものであるが、平成四年八月一日付けで第三内科助教授から臨床検査医学講座教授並びに医学部附属病院検査部長に就任したため、原告を外来で直接診察することはなかった。しかし、松夫教授は、右就任後も、第三内科と共同して抗HIV剤の開発に向けた基礎研究に従事し、かつ、そのかたわら、第三内科のHIV感染患者の治療にも関与し、原告に対する診療においても、同教授が開発に関与した治験薬の投与、検査データの分析等による原告の症状観察及び治験薬効果の判定、並びに治療方針の決定などについて、梅夫医師と討論したり、同医師に助言を与えたりした(以下、松夫教授の右のような役割を「治療相談コンサルテーション」という。)。

2  原告による感染事実の歯学部教授への開示

原告は、HIV確認検査結果の告知を受けた平成六年一月一〇日の午後、歯学部第一口腔外科講座丙山教授や口腔細菌学講座丁川教授に対して、HIVの検査結果が陽性であったことを打ち明け、また、戊田歯学部長に対しても同様の話をした。そこで、戊田歯学部長が翌一一日、第三内科科長の乙原教授に原告のHIV感染の真偽について問い合わせをした。同日、乙原教授は、原告の自宅に電話をし、事情を説明して原告の了解をとった上、翌一二日、原告のHIV感染が事実である旨回答した。また、同月一九日、原告は歯学部補綴学第二講座の甲田教授を訪ね、風邪のため同講座の再試験を受験できなかったことを話した際、HIV検査結果のコピーを示してHIVに感染していることを告白した。

3  歯学部の対応

原告からHIV感染の事実の告白を受けた歯学部は、今後の対応策について教授懇談会などを開催して協議した結果、当面は、戊田歯学部長、歯学部教育委員長丁原教授及び補導委員長甲田教授の三名(以下「歯学部三教授」という。)で原告に対応することとし、甲田教授が原告に対し保健管理センターの受診を勧めるなどカウンセリングの指導を行い、歯学部内外との連絡等は丁原教授がすることなどを決めた。

そこで、丁原教授は、松夫教授に対し、歯学部として原告の大学生活継続を支援していきたい旨を話し、HIV感染症の専門家としてのアドバイスを求めた。松夫教授は、歯学部側で原告の支援体制を整えることは望ましいことであると考えて、丁原教授の右要請に応じることとし、平成六年二月二三日、歯学部三教授と会談をした。この会談において、松夫教授は歯学部三教授に対し、HIV感染症の一般論、原告の免疫機能が正常者の半分くらいであることなどの原告の病状の概略、原告に対する今後の治療方針や見通し、二次感染を防ぐことの重要性、特に性的交渉に関しては十分に原告を諭す必要があることなどについて説明をした。右説明後、丁原教授は、同年三月八日に予定されている原告及びその両親(以下、この三名を併せて「原告ら」という。)と歯学部三教授との面談に、松夫教授も出席してほしい旨を依頼し、同教授はこれを承諾した。

同年三月二日、歯学部三教授と原告との面談があり、歯学部三教授が歯学部側の窓口として対応することが原告に伝えられた。

同月八日、歯学部三教授と原告らとの面談が行われた。この面談において、まず丁原教授が、原告らに対し、歯学部としては、原告がHIV感染者であっても勉学に支障がないよう支援していくこと、次の学年に進級できた場合、臨床実習があるが、原告が臨床実習をどの程度履修できるかについては検討しなければならないこと、病状が悪化すると学業継続が困難になるので、原告の病状推移の見通しについては主治医と相談する必要があることなどを説明し、補導委員長の甲田教授は厚生・補導関係の話を、戊田歯学部長は全般的な話をした。原告らは、原告が学業を継続し卒業することを希望し、歯学部が支援することについては好意的に受け止めた。

松夫教授は、この面談の途中から参加し、まず丁原教授から、原告らの紹介を受け、それまでの面談中において歯学部三教授が原告らにした話の概略を聞いた後、HIV治療の専門家として、原告らに対し、HIV感染症一般の説明をした。その後、原告の健康状態が話題になったため、松夫教授は、第三内科に電話をし、原告の通院状況、血糖値、リンパ球の数及びCD4とCD8との比等を問い合わせた上、右面談の出席者らに対し、原告の免疫不全状態はある程度進行しており、このまま進むと結核その他の日和見感染に注意しなければならなくなるので、規則正しい生活を心がけるようにすべきであるという趣旨の話をした。原告は、このように松夫教授が第三内科に電話で原告の病状を確認し、右面談の場において公表したことについて格別の異議を述べなかった。しかし、原告は、従前、梅夫医師から日和見感染の心配は少ないと聞いていたため、松夫教授の右説明によって、原告の認識以上にCD4とCD8の比の値が減少しており、免疫機能の低下傾向が進んでいるとの印象を受けて不安を抱き、右面談の終了後、梅夫医師のもとへ赴き、病状についての説明を求めた。梅夫医師は、原告に対し、同医師の従前の説明に特に間違いはない旨を述べた。

同月一六日、歯学部教授懇談会において、甲田教授がそれまでの原告らへの対応の経過について一通り説明した後、松夫教授によるHIV感染症についての講演が行われた。松夫教授は、スライドを用いて、エイズの原因、病態、症状、治療等の現状と今後の見通し、問題点等について約一時間話をし、CD4が減少する仕組みなどについては第三内科のデータも紹介して説明し、原告の健康状態や予後についての自分の考えについても口頭で簡単に言及した。この講演の内容は、同年二月三日の歯学部三教授との会談や三月八日の原告らとの面談の際に示されたものとほぼ同じであった。

同年四月二〇日、歯学部教授会が開催され、戊田歯学部長から、歯学部学生にHIV感染者が現れたことを踏まえた説明があった後、感染学生への対応等について検討する歯学部感染対策委員会を設置することが提案・承認された。右委員会は教育委員長(丁原教授)、補導委員長(甲田教授)、口腔病理学講座教授、口腔細菌学講座教授、附属病院院内感染対策委員会委員長の五名で構成され、歯学部長も必要に応じて出席することとなった。

この歯学部感染対策委員会は、同月二七日に第一回会合が開催され、その後平成七年一二月一四日までの間に合計一五回開催された。右委員会では、教職員や学生にHIV感染者が生じた場合の対応の在り方についてのガイドラインの作成、HIV感染学生(原告)に対する教育の在り方、臨床実習の実施の可否、実習方法、範囲、進路指導及び文部省への説明等について意見交換が行われた。

4  歯学部のその後の対応

平成六年三月八日の前記原告らとの初めての面談以降、同年一二月ころまでの間、甲田教授が原告との個別面談を月に一回程度の頻度で行い、原告の両親を含めた歯学部三教授との面談も、同年六月二四日及び一〇月二七日の二回行われた。

右一〇月二七日の面談において、歯学部三教授から原告らに対し、原告の臨床実習の内容、方法について限定ないし制約が付されることがあり得ること、右臨床実習をする際には病院の実習関係者及び患者の理解を得る必要があることなどが説明された。これに対して、原告の父親は、臨床実習中にどうしてもできないことがあればやむを得ないが、できるところまで原告に実習を受けさせてほしい旨を要望した。また、原告は、自分の臨床実習についてHIV感染の危険があるのであれば、HIVに感染している他の歯科医師にもその可能性があるはずでないかと指摘するなどして、臨床実習への進級を強く希望した。これらの点につき、歯学部三教授は、それぞれの立場から助言をし、臨床実習の具体的実施方法の検討は更に続けるが、原告が臨床実習を履修するためには、何よりも臨床実習に進級できるように原告自身がベストを尽くして従前の不合格科目に合格することが必要である旨を話した。

同年一一月一六日、五年次の進級判定が行われ、その結果、原告は単位不足で留年となった。そのため、当該年度における原告の臨床実習への進級は実現しなかった。

5  翌年の平成七年五月三一日、TBSテレビの番組「スペースJ」が放映された。その題名は、「実名公表、エイズ(HIV)感染者、ある歯学部生の選択」というもので、その内容は、原告が歯科医を目指す学生であるという特異な状況、卒業のためには臨床実習が必須であり、そこでは第三者に対する感染の可能性がないとはいえないこと、原告と同性愛仲間との交友状況、原告が幼少時にオカマと呼ばれた苦い思い出、公開ラジオ番組で実名を公表したいという原告とこれに反対する家族とのやりとり、実名公表の状況、大学の学生にHIV感染者が存在することが判明したことによる大学側の苦悩、死に対する原告の不安、教育の機会が得られなければそれは差別となるという弁護士の意見などが取り上げられ、最後に職業選択の権利を守るというだけでは片付けられない問題であろうという番組担当者の意見ないし疑問の表明でしめくくられていた。

右の放送終了後、被告大学歯学部附属病院に通院中の患者から、通院に不安を感じるが大丈夫かという問い合わせがあり、また、他大学の医・歯学部関係者からの問い合わせも数件あった。

6  本件開示

丁原教授は、右放映から約一週間後の同年六月八日、自分の教授室から外来にいた松夫教授に電話し、同教授に対し、原告のHIV検査データ、最近の健康状態及び通院状況についての問い合わせをした。

丁原教授は、右問い合わせの目的を松夫教授に明確に告げることはしなかったが、丁原教授がこの時期に原告の病状について問い合わせをしたのは、歯学部側では、原告の病状に関するデータについて、一年以上前に松夫教授から説明を受けて以来正確に把握しておらず、そのため歯学部において今後予想される原告の臨床実習の実施方法等を検討するための基礎資料として、原告の病状についての最新のデータを知っておく必要があったからである(この点、原告は、前記放映との関係によるマスコミ対策を進める上で必要であったからであると主張するが、右問い合わせの直前に、原告について取り上げたテレビ番組が放映されたという以外には、原告の右主張を裏付ける客観的な事情は何ら主張立証されておらず、かえって、前記認定の従前の事実経過及び後述する本件開示後の事実経過(開示された情報がマスコミにおいて利用された事実がないことや感染対策委員会で本件開示を踏まえた原告の病状についての説明が実際にされていること)に鑑みると、原告の右主張はにわかに採用することができないものというほかない。)。

丁原教授からの右問い合わせに対し、松夫教授は、平成六年二月二三日の歯学部三教授との会談、同年三月八日の原告ら及び歯学部三教授との会談、並びに前説歯学部教授懇談会での講演を通じて、歯学部が歯学部三教授を中心に、原告の勉学環境を整え、支援していこうとしていることを自ら確認したとの認識であったこと、またそのことについては、原告らも好意的に受け止めているものと認識していたこと、原告の健康状態や通院状況についての情報は、原告の勉学環境を整えていく上で当然に必要であり、またそのような趣旨で丁原教授に対して開示することについては原告においても格別異存がないと考えたことなどから、丁原教授に対して本件開示をした。

7  本件開示から間もない平成七年六月一四日、戊田歯学部長及び丁原教授において、原告の臨床実習に伴う患者の安全対策等について、医学部顧問弁護士と面談し、意見交換を行った。右弁護士は、HIV感染者に対する実習が他の学生に対する実習と違っても差別には当たらないと考えられるが、専門的な事項でもあるので文部省とも折衝を続ける必要があるという趣旨の助言をした。翌一五日、第一二回歯学部感染対策委員会が開催され、丁原教授は、前記「スペースJ」に出演した弁護士(原告訴訟代理人)との面談予定があることを報告した上で、医学部顧問弁護士との右面談結果を説明し、臨床実習実施上の問題点について先に検討したが、原告が今秋に臨床実習へ進級することを考慮して、再度審議する必要があるとの意見表明をし、加えて、本件開示に基づく原告の現在の病状などについても説明をした。

同月二九日に開催された第一三回歯学部感染対策委員会においても、原告が臨床実習に進級することを考慮し、臨床実習実施上の問題点を早急に検討する必要があるなどという丁原教授からの説明や、意見表明がされた上で、意見交換が行われた。

8  臨床実習の内容

被告大学歯学部学生の臨床実習は、右歯学部附属病院において、五年次生の後期後半から約一年間にわたって行われる。実習内容は、臨床実習一及び二に分かれており、臨床実習一は、予備実習として基礎的なことを学ばせることが目的であるが、臨床実習二は、本実習として、約一年間、指導教官の指導監督の下、指導教官が実際に受け持っている数名の患者を担当し、検査や処置等の基本的な歯科治療を実習する。歯科治療の項目には、虫歯治療、入れ歯の調整、簡単な抜歯などがあり、その過程で麻酔注射も経験することとされていた。

9  原告の臨床実習進級の可能性

昭和六二年四月に被告大学歯学部に入学した原告は、歯学部の最長在籍期間(一二年)との関係で、平成一一年三月までに卒業しないと学則により除籍される立場にあった。原告は、五年次の秋に行われる進級判定に四回不合格になっていたが、本件開示がされた平成七年六月の時点においては、不合格科目が口腔生理学一科目にまで減っていた。そして、夏休み前後には、不合格科目の再試験が行われることが多く、これに合格すれば、その年度の後期から行われる臨床実習への進級が認められる状況にあった。原告が歯学部を卒業するためには、臨床実習を履修することが不可欠であった。

10  以上の事実が認められ、右認定に反する原告本人の供述及び陳述書の記載内容は、採用することができない。

二 以上の認定事実を前提として、松夫教授が本件開示をしたことにつき、診療契約上の守秘義務違反が認められるかどうかについて検討する。

1(一)  医療従事者は患者に対し、診療契約上の付随義務として、診療上知り得た患者の秘密を正当な理由なく第三者に漏らしてはならない義務を負う。

(二)  ところで、前掲各証拠によれば以下の事実が認められる(当裁判所に顕著な事実を含む。)。

HIV(ヒト免疫不全ウイルス)は、エイズを引き起こす病原体であり、リンパ球の一種で免疫促進機能を有するCD4T細胞(以下「CD4」という。)に感染し、その免疫保進機能を障害又は破壊し、免疫不全状態を進行させるものである。HIVに感染し、その結果免疫不全状態になったHIV感染者は、特異な日和見感染症を発症したり、二次性悪性腫瘍の発生あるいは神経障害を発現するなど多彩な様相を呈することとなるが、そのような病態が後天性免疫不全症候群(エイズ)と呼ばれる。

このようにHIV感染症の本質は、HIVがCD4の免疫促進機能を障害又は破壊する点にあり、CD4の数の大きな減少は、免疫不全状態の進行を意味するため、CD4に関する検査データ、具体的には、血液中のCD4の数量や、免疫促進の過剰を抑制するCD8T細胞(以下「CD8」という。)とCD4との数量比などは、HIV感染者の免疫機能の低下度、逆に言えば、エイズ発症の可能性を知る上で重要な指標となるものである。また、一般にHIV感染後エイズ発症までの期間は約六か月から一〇年と個人差があり、エイズを発症しない限り、感染者は日常生活の上で格別困難を伴うことなく生活をすることができるとされているが、他面、今日、治験薬の開発によりHIV感染患者の長期生存可能性が出てきたとはいえ、エイズに対する特効薬は現在のところいまだ発明されておらず、エイズが発症してしまうとその予後は芳しくなく、死に至るケースが多い。したがって、エイズ発症の不安をHIV感染者が常に抱えていることは容易に想像でき、それゆえ、エイズ発症の可能性の指標になるCD4に関する検査データはもちろんのこと、HIV感染者の病状に関するデータは、感染者本人が極めて重大な関心を抱く情報であり、また感染者が一般的に公開を欲しないであろう性質を有するものといえる。

(三)  このようなことから、HIV感染者の病状、特に免疫機能に関する情報は秘密性が非常に高いということができ、したがって、HIV感染患者の診療に携わる医療従事者は、その患者の診療上知り得た右のようなHIV感染者の病状については、診療契約上相当高度な守秘義務を負うというべきであり、正当な理由がないのに右データを第三者に漏らした場合には、診療契約上の債務不履行責任を負うものと解すべきである。

2  これを本件について見ると、次のようにいうことができる。

(一)  前記認定のとおり、本件診療契約の当事者である被告は、本件診療契約に基づき患者の秘密について守秘義務を負うところ、松夫教授は、原告に対するHIV診療に関して、当初から、治験薬の投与、検査データの分析、治療方針の決定などについて助言をし、梅夫医師と討論するという形(治療相談コンサルテーション)で、原告の治療に関わってきたのである。したがって、松夫教授は、原告の診療に携わる医療従事者として、その診療上知り得たHIVに係る原告の検査データについて、被告が負う守秘義務の履行補助者の地位にあるというべきである(この点に関連して、原告は、松夫教授が、被告の履行補助者たる主治医の地位にあったと解することはできず、回答それ自体してはならなかった旨主張する。しかし、右原告の主張は、守秘義務違反による債務不履行責任を追及している本件において、本件開示行為の主体である松夫教授を履行補助者ではないとするものであり、債務不履行の主張と相矛盾するように思われ、その趣旨とするところは必ずしも明らかでないが、善解するに、原告の診療に関与していない松夫教授が回答したことは、正当理由の有無にかかわらず違法であるとするものとみることができる。しかしながら、前記認定のとおり、松夫教授は、外来で原告を直接担当することはなかったものの、医療相談コンサルテーションの役割を担って原告の診療に関与してきたものであって、この認定を覆すに足る的確な証拠は全くないから、原告の右主張を採用することができず、正当な理由のある限り、松夫教授は本件開示を行い得る立場にあったというべきである。)。

(二)  そこで、松夫教授の本件開示行為に正当な理由があったかどうかについて検討する。

(1) 本件開示の動機

前記認定のとおり、松夫教授は、歯学部が歯学部三教授を中心に、原告の学業継続及び卒業を支援していくために動いていること、そうした支援を、原告らが望んでいることを認識し、そして、HIV治療に係る検査結果などの原告の健康状態や通院状況を把握することは、原告の学生生活を支えていく上で当然に必要なことであるし、また開示について原告も格別の異存がないものと考え、歯学部における原告の支援体制の中心的人物である丁原教授に対し本件開示をすることとしたものであり、実際にも、丁原教授が松夫教授に原告の病状等を問い合わせたのは、歯学部における原告の臨床実習をどのように実施するかの対策を立てる基礎資料とするためであった。

(2) 動機の正当性

前記認定のとおり、歯学部学生の臨床実習は、歯学部附属病院において実際に患者に接して、検査や処置を行うものであり、また、実習内容には、抜歯、麻酔等といった観血的なものが含まれている。そのため、原告が臨床実習を履修するのに伴う注意点として、まず、種々の感染症を持った実習患者から原告への感染を予防すること、及び、原告から実習患者に対するHIVの感染(二次感染)を予防することがある(原告は、当時、通常の歯科治療からHIV感染が起こり得るものではないとするのが一般的見解であったと主張するが、HIVが血液を媒介として感染することは一般的に知られているところ、臨床実習の場面において、実習者が手指を傷付け出血する可能性が皆無であるとはいえず、感染の可能性が全くないと断定するに足りる的確な証拠はない。したがって、医療従事者としては、あらゆる可能性を考慮し、細心の注意を払って臨床実習を行うことが必要なことは明らかである。)。また、前記認定のとおり、患者実習は、指導教官が実際に受け持っている患者を対象として、指導教官の指導監督の下で行われるため、原告が担当することになる患者や指導教官の理解を十分に得る必要がある。さらに、右のとおり、歯学部学生は、臨床実習では医療者として患者に接するので、体力的、精神的な負担も少なくない。この点、原告は、未だエイズを発症しておらず、通院のみで診療を受け、健康者と変わらない日常生活を送ることが一応可能な状態ではあったとはいうものの、感染者が何時エイズを発症して、入院が必要となり、体力が急激に衰えるかということの予測が容易でなかったことからして、臨床実習中に右発症があり得るかどうかという可能性についても検討し、対処しておく必要があったというべきである。

したがって、臨床実習を行う歯学部としては、原告が臨床実習に際して日和見感染を起こす可能性がないかどうか、実習患者や指導教官の理解を得られるかどうか、あるいは原告が精神的・体力的に臨床実習を履修することができるかどうかなどを判断するために、原告の病状を把握する必要性があったというべきところ、本件開示の直前、歯学部では、原告の病状、特に免疫機能の低下状況については一年以上前に松夫教授から説明を受けただけで、その後の推移は正確に把握していなかったものである。

そして、本件開示に係る原告の血糖値、リンパ球の量、CD4とCD8の比などは、HIV感染症の原告の健康状態を端的に表すものであって、臨床実習における原告の診療行為がどの程度安全かを判断する基本的な資料になるものである(特にCD4の数値は、HIV感染者の免疫機能の低下度を知る重要な指標であることは前記のとおりである。)。

以上の各事情を総合すると、丁原教授や松夫教授の前記認定に係る「HIV治療に係る検査結果などの原告の健康状態や通院状況を把握することは、原告の学生生活を支えていく上で当然に必要なことである」という本件開示に関する動機は、極めて正当なものであったと評価することができる。

(3) 本件開示に係る双方の立場

前記認定のとおり、丁原教授は、歯学部教育委員長及び歯学部感染対策委員会の委員長の立場にあり、歯学部における原告の学業継続の支援体制の中で中心的役割を果たしていた人物であり、他方、松夫教授は、そのような丁原教授からの打診により、歯学部三教授と会談し、原告らと歯学部三教授との面談に立ち会い、歯学部教授懇談会において講演していたものであり、その際、原告の病状について説明をしたものである。右事実からして、松夫教授は、歯学部の支援体制の中心的人物が丁原教授であることを十分認識していたものであることが明らかである。

そうすると、松夫教授において、丁原教授からの原告の当時の病状についての問い合わせに対して回答したとしても、開示した情報はあくまでも歯学部の中で臨床実習の可否等について検討する資料として利用されるにとどまり、そのデータが歯学部外に公表されることはないものと信頼したことは相当であったというべきである。

したがって、HIV感染者のプライバシー保護の観点からみても、松夫教授が本件開示を行った相手が不相当であったとはいえない。

(4) 本件開示に係る情報の秘密性

前記認定のとおり、<1>原告は、HIV感染の事実を歯学部教授らに開示しており、感染の事実は歯学部教授内においては周知の事実となっていたこと、<2>原告は、平成六年三月八日の会談の際に、松夫教授が原告の病状に関する情報を歯学部三教授に教示したことについて何ら格別の異議を述べていないこと、<3>本件開示において、開示された内容は、血糖値、リンパ球、CD4とCD8の比という客観的なデータであり、またそのような客観的データを、一般に内容の正確性について信頼性の高いカルテの記載に基づいて説明したのであるから、開示した相手に誤った認識を与える可能性も少なかったこと、特に、丁原教授は、平成六年三月八日の会談の際に、松夫教授から原告の病状について、同様のデータについての説明を受けているのであるから、誤解を与える可能性は一層低かったものといえること、<4>本件開示によれば、原告の病状は、一年三か月前の平成六年三月八日におけるものと比較してもほぼ横這いの状況にあり、右病状に関するデータが原告がHIV感染者であることを知っている者に知られても原告に格別の不利益をもたらすものであったとは必ずしもいえないことが認められる。

そうすると、前記判断のとおり、HIV感染者の免疫機能の状態に関する情報は、それ自体、高度の秘密性を有するものではあるが、右の各事情及び前記(2)及び(3)で述べた事情の下においては、本件開示に係る情報は、少なくとも歯学部丁原教授との関係では、原告において、およそ開示を欲しないという性質のものであったとは認められない。

(5) これに対して、原告は、松夫教授が丁原教授からの電話での問い合わせに対して、原告の病状を電話で回答した行為は、「患者本人以外の者からの電話等による患者に関する問い合わせには一切対応しない。」とする厚生省の指導に明白に違反しており、形式上ですら正当な理由の要件を充たすものではない旨主張する。

しかしながら、厚生省の右指導文言に合致していないことが直ちに民法上の違法性を基礎付けるわけでないことはいうまでもなく、右違法性の有無は当該事案ごとに吟味されなければならない。そして、厚生省の右指導の趣旨は、電話による問い合わせは相手方の素性が必ずしも正確に確認できるわけではなく、患者の重大な秘密を不当に漏洩させてしまう危険性が高いことに鑑み、主としてそのような場合を想定してこれを防止することを目的としているものと考えられるところ、本件の場合、松夫教授は、丁原教授と面識があり、電話の相手が丁原教授自身であることは容易に判断できたものであり、事実、丁原教授本人が直接松夫教授に電話したものであることに照らすと、電話で回答したこと自体をもって、その違法性を基礎付けるというのは相当でないというべきである。したがって、原告の右に係る主張は採用できない。

(6) 以上の検討結果、本件に係る前記諸般の事情を総合すると、松夫教授が丁原教授に対してした本件開示には、正当な理由があったというべきであり、右開示行為には違法性ないし過失がなかったとするのが相当である。したがって、仮に原告の黙示的承諾がなかったとしても、守秘義務違反の点に関する原告の主張は採用することができない。

右のとおりであるから、争点2の黙示的承諾の存否については、格別に判断するまでもないが、事実に照らして一言すれば、前記検討結果、《証拠略》を総合すると、従前の原告ないし原告らとの間の面談等の前記諸般の事情からして、松夫教授や丁原教授において本件開示については原告も格別異存のないところと考えたものであることが認められ、そのように考えたことには相当の理由があったというべきである。しかし、本件開示がされたころには、右両教授のいずれについても原告との間で右開示等について格別に話し合ったという事実関係がないこと、現今ないし平成七年当時のHIV感染症に対する社会一般の認識状況からして、HIV感染症患者にとっては、たとえ外部にHIV感染症患者であることが知られているものであったとしても、その症状が自己の承諾なくして第三者に知られることは、それ自体一般的に強く嫌忌される事柄であることが明白であること、エイズ予防法に係る前記法条、厚生省の通達等の趣旨中には、そのようなHIV感染症についての一般社会の認識状況の下に、HIV感染症患者につき客観的主観的な打撃に対する予防、保護を付与するという趣旨が含まれていることなどからすれば、HIV感染症患者の症状に関する情報開示について当該患者の承諾を得るについては慎重かつ適正厳格な手続を経る必要があるというべきであって、そのような基本的な考え方からすれば、前記従前の経緯のみをもって直ちに原告が本件開示についてまで包括的に承諾していたと認めることは相当でないといわざるを得ないものである。したがって、争点2の黙示的承諾があったという被告の主張は容易に採用することができないものである。

三 最後に、カルテの保管義務違反の点について検討する。

前記のとおり、松夫教授は、チーム医療の一員として、原告のHIV感染症に対する治療に携わってきたものであるから、当然、原告のカルテを閲覧する正当な地位を有していたと認められ、さらに、既に検討したとおり、本件開示には正当な理由があったものであるから、松夫教授が右開示のために原告のカルテを閲覧したことについても正当な理由があったというべきである。そうすると、松夫教授が原告のカルテを閲覧することを許した被告に、原告カルテについての保管義務違反があったとは認められない。

四 以上のとおりであって、その余の点を判断するまでもなく、原告の請求は結局理由がないといわざるを得ないから、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 伊藤 剛 裁判官 村岡 寛 裁判官 林 潤)

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